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史跡・文化財を訪ねる

本郷に東京大学を擁するこの地域は、まさに文京(文教)の地。夏目漱石の「三四郎」の舞台・東大三四郎池を はじめ、森鷗外、樋口一葉と日本の近代文学を代表する文豪ゆかりの地もこの一帯に多くあります。
弥生式土器も根津谷に面した貝塚から発掘され、発見地の地名を取って弥生式土器と名付けられたとのことです。
この地域は東京23区のほぼ中央に位置し、歴史と文化に恵まれた緑豊かな地域です。庭園や美術館、博物館も充実。由緒あるお寺も多く、著名人のお墓や文化財も少なくありません。また、梅まつり、桜まつり、つつじまつり、あじさいまつり、菊まつりと四季折々の花まつりも見逃せません。


4昌清寺しょうせいじ芭蕉ばしょうの句碑・花見塚」
G9元和元年(1615)創建。開山龍誉霊吟大和尚は、家康と親交の深かった増上寺19世観智国師の弟子で学徳すぐれ名刹を離れてこの地に草庵を結び、念仏を広められました。時に三代将軍職の世継ぎを巡って兄家光と弟忠長との間に問題が起き、春日の局の奔走あって家光が将軍となり、やがて父君秀忠が亡くなると、忠長は駿府55万石を没収され、奥方とも引き別れて高崎城内で自刃に追いやられ、遺骸は城外の大信寺に葬られましたが謀反のとがのため墓を建てることも許されず、松の木1本植えて墓印とされました。
忠長の正室・お昌の方(織田信良の娘・久姫といい信長のひ孫)は夫の菩提のために、本郷のこの草庵をとりたて堂宇を整えて当寺を建立。公儀を配慮して忠長の乳母きよ(清)を開基であると披露、お昌の方とお清の二人の名前をとって、昌清寺と称するようになりました。境内には松尾芭蕉の句碑があります。「桜狩りきとくや日々に五里六里」(笈の小文の中に詠まれた句)と刻まれています。

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昌清寺

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昌清寺
「花見塚」
5心城院しんじょういん「江戸名水 柳の井」
I8江戸時代の文献、『江戸砂子』『紫一本』などに、「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり」とあり、美髪・厄除けのご利益を求め、日々参拝者が訪れています。また、関東大震災の時には、湯島天神境内に避難した数多の罹災者の生命を守った唯一の水として、当時の東京市長から感謝状を受けました。
5心城院「江戸名水 柳の井」
8興善寺こうぜんじ霊夢祖師像れいむそしぞう」「養珠院画像ようじゅいんがぞう」「壁画」
F7「霊夢祖師像」は後醍醐天皇の第二皇子大塔宮護良親皇の御子で、鎌倉松葉谷妙法寺の開山 楞厳親皇日叡上人の作。康暦年間(1379〜1380)諸国に疫病が流行、多くの死者が出た ため、日蓮上人の御像に日夜祈念したところ、ある夜夢の中に日蓮が現れ、「吾弟子の修行及 び丹精をめでたまい。ここに霊妙の秘符を授与せん。これを要人貴賎の上下なくのませよ。」 とのこと。人々に加持をし秘符を授けたところ一人として治らない人はなく、この大恩に報 いるため、一木二体の尊像とし、霊夢の感応を後までも伝えようと、要文、秘符を御胎内に おさめてお作りになったものです。ほかにも「養珠院画像」「内陣の壁画」がありますがい ずれも非公開です。

8興善寺「養珠院画像」
9法真寺ほうしんじ腰衣観音こしごろもかんのん」 http://www.hoshinji.jp
G7「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などで知られる樋口一葉ゆかりの寺。
明治9年(1876)、樋口家は当山の東隣に越してきました。一葉9歳まで5年間住んでいましたが、両親、二人の兄、そして妹と、家族全員がそろっていて、父親の事業も順調で、経済的にも家庭的にももっとも恵まれていた時代だったのです。そんな中、一葉は倉庫で本を読みふけったり、2階の窓から境内の桜を眺めたりしていたのです。「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、前に供へし樒の枝につもれるもをかしく」と当時の法真寺の情景を「ゆく雲」の中で書いています。
その「腰衣観音」も現存しています。見学は要予約(電話03-3813-8241)

9法真寺「一葉塚」
10西教寺さいきょうじ朱塗しゅぬりの山門さんもん
G6寛永年間(1624〜1644)釈了賢が湯島三組町に建立。元禄2年(1689)に現在の地に移転。朱塗りの表門は、幕末の大老酒井雅楽頭の屋敷から譲り受けて明治7年移築されたものです。複雑な寸法体系を持ち、近世初頭の標準からはずれる独自の特色を多く持ち、構成に独自な品格を有することから文京区有形文化財に指定されています。
10西教寺「朱塗りの山門」
12西善寺せいぜんじ近藤重蔵こんどうじゅうぞうの墓」
F5墓地の奥まったところに、江戸時代後期の北方探検家、近藤重蔵のひときわ立派な墓があります。明和8年(1771)駒込に生まれ、寛政6年(1794)湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。寛政10年(1798)松前蝦夷地御用取扱に任命され、最上徳内らと共に択捉島に渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建て、その後も4回の東蝦夷地を探検。文化4年(1807)には松前奉行出役となり、利尻島に渡り、帰途天塩川流域から南下して神居古潭(カムイコタン)を経て石狩川を下り現在の札幌周辺も踏査しました。後に書物奉行となり「金銀図録」「宝貨通考」「外蕃通書」などの著書を献納しています。

13正行寺しょうぎょうじとうがらし地蔵尊じぞうそん」「待乳山まつちやまの墓」
F5慶長9年(1604)家康公が鷹狩りに川越に訪れた際、蓮馨寺に立ち寄り自ら信仰している浄土宗の教えについて質問された。この時に見事な大任を果たしたのが念誉達道上人。この縁により翌年の慶長10年、江戸城に呼び出されねんごろな上意を賜わった。湯島に表45間、奥行き55間の土地を拝領、一宇を建立し「親縁山 龍池院 正行寺」と名付けたのが始まりです。境内には、百日ぜきに霊験あらたかな「唐がらし地蔵尊」が安置されています。
また、江戸時代に活躍した力士「待乳山楯之丞とその一門」のお墓があります。
13正行寺「待乳山の墓」
21瑞泰寺ずいたいじ東都六地蔵一番とうとろくじぞういちばん
F4京都知恩院末。光蓮社桂芳上人により神田明神下に桂芳院として創建。三世大誉上人[天和8年(1636)]寂の時、京極修理大夫高三が前城主丹後守高知公(法号:瑞泰院殿)の冥福を祈るため、菩提寺とし、法号を取り瑞泰寺としました。慶安元年(1648)四世教誉上人の時に現在地に移りました。門を入って右手に木食空無上人により作られた銅像で身丈八尺(2.4メートル)の地蔵尊を安置されていましたが、大正の関東大震災で破損。その後、再建したものの戦火で焼失。現在の像は四代目で昭和 61年(1986)に再建したものです。

23光源寺こうげんじ駒込大観音 こまごめおおがんのん
F4高さ6メートルの木造金箔の巨大な十一面観音です。奈良の長谷観音の写しとして、元禄10年(1697)に創建された当初は身の丈2丈6尺(8メートル弱)の威容を誇り、その様子は「江戸名所図会」に描かれています。長谷寺式といって錫杖を持っているのが特徴。十一面の顔には慈悲・威怒・大笑などの相があり、これらは人々のあらゆる願いに応え、正しい道へ導くことを現しています。昭和20年の空襲により、観音堂もろとも焼失してしまいましたが、平成5年に再建されました。毎年7月9日と10日は、この日にお参りすると四万六千日分の御利益がある縁日。両日夕方に開催される「ほおずき千成り市」には、ほおずき屋や手づくり品の露店、奉納パフォーマンスで賑わいをみせます。

23光源寺「駒込大観音」
25養源寺ようげんじ稲葉正勝公いなばまさかつこうの墓」「安井息軒やすいそっけんの墓」「西村茂樹にしむらしげきの墓」「きよの墓」
F3初めは湯島切通坂下に建立されました。開基は、家光の乳母、春日局の息子の稲葉正勝公の由緒ある寺。明暦の大火後この地に移りました。第二次大戦により焼失。終戦後に建てられた建物も老朽化したため、現在は鉄筋コンクリートに建て替えられました。稲葉正勝の古塔ほか、墓域には江戸時代の漢学者安井息軒や明治時代の啓蒙学者西村茂樹等の眠るお墓があります。また漱石の「坊ちゃん」に出てくる「きよ」の墓もあります。
25養源寺
26蓮光寺れんこうじ北方探検家ほっぽうたんけんか最上徳内もがみとくないの墓」
F4山門左手に最上徳内のお墓。蝦夷地に渡って松前藩主に防備を説き天明4年(1784)には幕府測量隊とともに蝦夷地に渡り、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)を経て日本人として初めてウルップに渡った。後にサハリンにも渡っています。最上徳内の著した「蝦夷草紙」はオランダ人シーボルトにより、世界に紹介されました。

27髙林寺こうりんじ緒方洪庵おがたこうあんの墓」「岡麓おかふもとの墓」「紅白梅図屏風こうはくうめずびょうぶ
F4慶長元年(1596)開基。元禄4年(1691)綱吉の命により将軍家の武運長久の祈願寺として創建されました。慶長9年に、神田から現在のお茶の水に移転。境内に名水が湧き、お茶を立てて将軍に献上したことからお茶の水という名がついたと言います。蘭学者で医師の緒方洪庵のお墓があります。洪庵の開いた「適塾」門下生には、幕末期に活躍した大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉などがいました。また、明治・大正期のアララギ歌人岡麓のお墓もあります。国立博物館に収められている二曲六双の桃山屏風「紅白梅図屏風」は当寺の所蔵です。また、文京区立元町公園は旧高林寺の跡地です。

27髙林寺「緒方洪庵の墓」
29常徳寺じょうとくじ身代みがわり地蔵尊じぞうそんhttp://www.jotokuji.or.jp/
F3この尊像は、身丈104㎝、尾州檜寄木造り、常徳寺参拝会で訪れて深い感銘を受けた福島県会津・常勝寺の通称「雨降り地蔵尊」のお姿を参考に仏師・渡辺貞光師が心をこめて彫り上げて下さいました。地蔵菩薩は梵語で大地の徳を現し、そのお姿は菩薩でありながら、僧形に袈裟を着し、右手に煩悩を払う錫丈を持ち、左手には意の如く宝生する宝珠を持っておられます。お地蔵さまをお参りすると身近に感じ安らかな気持ちになります。どうぞ辛い時、苦しい時、そして嬉しい時、楽しい時もお地蔵さまにすがり、語りかけて下さい。毎年1月24日に身代り地蔵尊祈願会(初地蔵)を勤め、多くのご参詣を頂いております。
29常徳寺「身代わり地蔵尊」

史跡・文化財を訪ねる
30大圓寺「高村光雲作・出山の釈迦像ほか」
F5慶長2年(1597)の開創で江戸開府の4年前。分福茶釜で知られる上州館林の茂林寺十二世久山正雄大和尚の開山。
はじめ神田柳原にありましたが、慶安2年(1649)に現在地に移りました。大圓寺には、御本尊・釈迦如来像のほか、虚空蔵菩薩、出山の釈迦像、慈母観音像、大黒天像、七観音胎内仏等の高村光雲作の諸像が所蔵されています。(通常は非公開)
30大圓寺
「虚空蔵菩薩」
30大圓寺
「出山の釈迦像」
32潮泉寺ちょうせんじ縁引地蔵尊えんびきじぞうそん
F4入口右にはためく赤い幟の第三十二番札所「縁引地蔵尊」。度々の大火にも焼失をまぬがれ、今次大戦による空襲の際にも灰燼の下から奇跡的に無傷で発見された因縁のあるお地蔵さまです。戦後も地域を中心に縁引地蔵講ができあがり境内に地蔵堂が建立され、それぞれの良き縁を願う人々の参詣が絶えません。また小説家武田泰淳が、ここで住職大島泰信の次男として生まれたことで有名です。

32潮泉寺「縁引地蔵尊」
33徳性寺とくしょうじ頬焼地蔵尊ほおやけじぞうそん
E4江戸山の手四十八地蔵三十三番札所。頬焼地蔵尊縁起によれば、下総国相馬郡大柏村長七という常日頃より地蔵尊信仰の非常に篤い方がいらっしゃいました。また、下女・きわも朝な夕なに供養していましたが、ある日内儀の心に障ることがございまして、焼火箸できわの頬を打ったのですが、不思議なことにきわの頬にはなんの疵もなく、地蔵の御顔から黒煙がのぼり、左頬が焼けてしまいました。その後、居づらくなった下女きわは、お地蔵さまを抱えて、この白山の地へやって来て漬物屋に奉公いたしましたが、手元に置くよりも近所のお寺さまに預けたいと、この徳性寺に持って来られたということです。

34龍光寺りょうこうじ駒込金毘羅大権現こまごめこんぴらだいごんげん」「早春賦そうしゅんふ・作詞者吉丸一昌よしまるかずまさの墓」 http://www.ryokoji.com
E4寛永9年(1632)伊勢(現鈴鹿市)の龍光寺虎伯大宣禅師(東福寺240世)を開山に迎え、唐津藩祖小笠原忠知公、丸亀藩主京極高和公、両家の江戸菩提寺として建立された都内唯一の臨済宗東福寺派寺院です。境内には江戸時代より多くの信仰を集め、昭和20年戦火により焼失した金毘羅堂が平成20年に復興され、戦火の中当時の住職が肌身離さず御守りした金毘羅大権現像が祀られています。また墓所には小笠原・京極両家の墓の他、愛唱歌『早春賦』で知られる明治の作詞家・吉丸一昌は大分より上京した当初龍光寺に一時身を寄せていたこともあり、当寺の墓所に眠っています。他にも水戸の「彰考館」の総裁を務めた江戸時代の儒学者・栗山潜鋒、三宅観瀾、鵜飼錬斎、剣道の大衆化に力を注いだ直心影流の正統十五代野見堤次郎などの墓が安置されています。
34龍光寺 復興された「金毘羅堂」
34「早春賦」歌碑
35仙龍寺せんりゅうじ木造もくぞう 阿弥陀如来坐像あみだにょらいざぞう
E4像高69.6cmの本像は、衣文が省略され形式化が強いとはいえ、定朝様の特色を踏襲しています。割矧ぎ造りの手法もまた、その時期に特有のものであります。その制作時期は、衣文の特徴からして平安時代最末期ないし、鎌倉時代初頭の12世紀後半ごろと考えられています。京都市の誓願寺に伝来と伝えられており愛知県の永向寺を経て、戦後、仙龍寺に移行されました。首の少しほっそりとした穏やかな像です。
35仙龍寺「木造阿弥陀如来坐像」
37定泉寺じょうせんじ宝籐院塔ほうとういんとう六阿弥陀ろくあみだ」「中興開山登誉見道上人ちゅうこうかいさんとうよけんどうしょうにんの墓」
F4元和7年(1621)本郷弓町にあった「太田道灌の矢場跡」を旗本蜂屋九郎次郎善遠が拝領し堂宇を建立、増上寺定誉随波上人を開山に迎え、東光山見性院定泉寺と号しました。明暦の大火後現在地に移転。当時からの鐘楼の鐘は、武州江戸丹波守藤原重正作で、黎明を破り月光にほえる響は駒込の名鐘の一つと称されました。また、本堂内本尊阿弥陀如来、過去帳の類は戦火を免れましたが、被災した観世音菩薩は、江戸三十三観音札所昭和新選の復興に当たり第九番札所として伊勢「白子の悟真寺」よりお迎えいたしました。当寺には御府内随一とされる「宝籐院塔の六阿弥陀」があり、印塔の六面に御姿が刻され大変珍しいといわれています。また、同じく江戸時代の作で特徴ある「五重の層塔」、更に、歴代住職の墓の中で「中興開山登誉見道上人の墓」が家形墓石で、その中に内仏として観音さまが座しておられるのもまれであると評価されています。他に本郷金助町ゆかりの「牧野金助の墓」、江戸時代の書家「林屋川崎の墓」があります。

37定泉寺「宝籐院塔の六阿弥陀」37「中興開山登誉見道上人の墓」
38南谷寺なんこくじ目赤不動めあかふどう
F3元和年間(1615〜1624)名僧の誉れ高い比叡山南谷の万行律師(南谷寺初代住職)が霊夢のお告げに従って伊勢国赤目山に登り絶頂の磐石に三日三夜端座して、秘印を結び不動真言を唱え明王の来迎を待ったところ、不思議なことに虚空に御声もろとも投げ入れられるものがありました。
気がつくと手には一寸二分の黄金の不動明王尊像が。比叡山南谷の庵室に安置。その後、衆生済度のため尊像を護持して関東に向かい下駒込(今の動坂)に庵を開き赤目不動と号しました。
寛永年間(1624〜1644)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄られた折、由来を言上したところ府内五不動の因縁をもって赤目を目赤とするようにとの沙汰があり現在地を賜ったとのことです。目黒不動尊、目青不動尊、目黄不動尊、目白不動尊、目赤不動尊をもって江戸五不動と称します。

38南谷寺「目赤不動」

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