上野のお山を中心とするこの一帯は、不忍池を琵琶湖になぞらえるなど、天海僧正が風水の限りを尽くし、結界を張り巡らした家康構想の中核。明治以降は恩賜公園に指定され、芸術と文化の中心地。豊かな自然の織り成す四季に加え、各種芸術のイベント、そして仏教に因んだ行事と見るものに事欠きません。
54 | 全生庵「山岡鉄舟の墓」「三遊亭円朝、弘田龍太郎、松本楓湖の墓」 |
| 幕末の三舟と謳われた一人の山岡鉄舟が明治16年、明治維新に殉じた人々の霊を供養するために建立したのが全生庵。境内の墓地中央奥に鉄舟の墓があります。
鉄舟の縁で、自作自演の人情話や怪談で有名な円朝の墓もあり、8月の命日の前後(日曜日)には「円朝忌」が開催されます。円朝が生前集めた円山応挙らの幽霊画も公開。落語ファンの間では有名です。また、「靴が鳴る」「叱られて」「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」で知られる作曲家弘田龍太郎や画家の松本楓湖の墓もあります。幽霊画は8月1日〜31日までの1ヶ月間公開。
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54 | 山岡鉄舟の墓 | 54 | 三遊亭円朝の墓 |
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61 | 大圓寺「瘡守稲荷」「笠森お仙と錦絵開祖・鈴木春信の碑」 |
| 瘡守稲荷は大前孫兵衛近江守重職が宝永年間の頃和田倉の御用屋敷へ摂津国芥川の瘡守稲荷を勧請したものです。その頃、悪質な腫物を患って苦しんでいた重職が祈願したところたちまちのうちに快癒したと伝えられ、腫物・皮膚病・婦人病・下の病に霊験顕かなことが江戸市中に知れわたり、重職は瘡守稲荷を菩提寺である大圓寺へ遷座することを発願し、享保十年(1725)、尊像は大圓寺に安置されました。人々は重職の心あるはからいに喜び、それ以来「谷中の瘡守稲荷」と呼び親しんで崇敬しました。当寺には笹川臨風識 中村春堂書「鈴木春信の碑」、荷風小史識 蔦月山人書「笠森おせんの碑」も大正8年(1919)に建立されています。
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61 | 笠森おせんの碑 | 61 | 鈴木春信の碑 |
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114 | 立善寺「閻魔法王像」「鬼子母神像」「日蓮聖人像」「三十番神像」 |
| 元和3年(1617)両国元矢倉に房舎を構え元和8年(1622)下谷金杉村に移り、明暦2年(1656)大猷院殿(徳川家光)御佛殿のため召し上げられ、貞享元年(1684)現在の谷中三崎村に移りました。その間も三宝尊(元和5年作)を移します。江戸時代の数々の大火、大地震、第二次世界大戦をも免れ板戸絵の他全ての仏像、江戸時代よりの過去帳、安永2年(1773)作の本堂、山門も残っており、現在は菖蒲寺の通称で呼ばれています。
仏舎利塔ほか自作大黒を有します。閻魔法王像は文化9年(1812)作、鬼子母神像は永仁2年(1294)冨木日常上人作、日蓮聖人座像は冠鐺日親上人(1216ー1299)作。(一般公開はしておりません)
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114 | 立善寺「閻魔法王像」 |
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25 | 功徳林寺「笠森稲荷」 |
| 明和6年(1769年)頃、鈴木春信が絵にしたことでも有名な「鍵や」という水茶屋の「おせん」が美人との評判を集めていました。
ところがある日この評判の美人が突然姿を消してしまい、噂が噂を呼び、江戸っ子は大騒ぎ。永井荷風の書いた碑文には、「女ならでは夜の明けぬ、日本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森かぎや阿仙、春信が錦絵に影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。大正八年六月 鰹のうまい頃」とあります。境内にある笠森稲荷のあたりは、近世の笠森稲荷の鎮座地としての谷中感応寺の中門前にあたり、「おせん」の「鍵や」もこの辺にあり、往時の門前はたいへんな賑わいで「いろは茶屋」と呼ばれる茶屋が集まっていました。
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76 | 天王寺「谷中五重塔跡」「毘沙門天立像びしゃもんてんりゅうぞう」「富くじ」 |
| 幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても有名な五重塔は最初、寛永21年(1644)に感応寺(現天王寺)境内に建てられましたが、明和9年(1772)に焼失し、寛政3年(1791)に再建。寛永寺・増上寺・浅草寺と共に「江戸四塔」といわれ、九輪までの高さ約34メートル。関東大震災 や空襲にも残りましたが、昭和32年(1957)7月6日放火心中により焼失。谷中七福神の一つとして信仰される毘沙門天は多聞天ともいい、仏法守護の天王であるばかりでなく、祈る者に十種福を授けるといわれます。京都の鞍馬寺が比叡山の乾(いぬい・北西)の方角にあり毘沙門天を祀っていることになぞらえたもので、天王寺は寛永寺の乾の方角にあたるため、比叡山飯室谷の円乗院から毘沙門天の木像をお迎えして本尊としました。本像は藤原期のもので伝教大師の作と伝えられ、文化財としても価値の高く優れたものといえます。富くじは寺社の維持のために幕府より許可されたもので、京都鞍馬寺では早くから興行していたようです。鞍馬寺の趣旨を移した当山でも、毘沙門天をお祀りすると同時に富くじ興行が許されました。その後、目黒不動や湯島天神も加わって「江戸の三富」といわれ、なかでも谷中の賑わいは富くじ人気に負うところが大きかったとされています。
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76 | 「東都歳事記」富くじの図 | 76 | 「毘沙門天立像」 |
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69 | 長安寺「寿老人」「紺紙金字大般若波羅密多経」「狩野芳崖の墓」 |
| 谷中七福神の一つ、寿老人。「紺紙金字大般若波羅密多経」は「中尊寺経」と呼ばれる様式で、表紙の「宝相華文」、見返しの「霊鷲山釈迦説法図」が金泥で描かれ、金泥で写経されたもので、本巻子は、三代藤原秀衡が発願した紺紙金字一切経の一つ、典型的な中尊寺経様式の優品です。また、絶筆「慈母観音図」で高名な画家・狩野芳崖の墓があります。芳崖は、伝統的な狩野派の画風に西洋の画法を取り入れて近代日本画の発展に大きく貢献するとともに東京芸術大学美術学部の前身・東京美術学校の創設にも尽力しました。
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11 | 延壽寺「日荷堂絵馬群」「八百屋長兵衛の奉納額」「横綱鳳谷五郎の墓」 |
| 日荷上人の健脚にちなみ足腰の病平癒の霊験彰かなことで知られています。江戸時代の人にとって、足腰の病にかかることは、生活の破綻を意味し、切実な思いで病の平癒、五体満足を願う人々が四季を通じてあとを断たなかったといいます。堂内には祈願をこめて奉納された、鉄の草鞋や草履が打ちつけられた絵馬が数えきれないほど並んでおり、現在でもマラソンランナー(駅伝選手、東京マラソン等)の方々が多く参拝されています。また当寺では八百長の語源で有名な八百屋の店主、長兵衛の奉納額や、24代横綱・鳳谷五郎のお墓があります。
http://www.taitocity.net/culture/bunkazai/h7/enjuji.htm
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11 | 延壽寺「日荷堂絵馬」 |
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34 | 自性院「愛染かつらの寺」 |
| 愛染明王像で知られ、江戸文化が花開いた文化文政の頃から愛染寺と言われております。愛染明王像は、第九世上人が、境内の楠を切り彫刻。像高1メートル。像内には第九世上人が高野山参詣の折り、奥院路上で拾得した小さな愛染明王が安置されていると伝えられます。(非公開)愛染明王とは、ヒンズー教から移入された愛の神。愛欲から離れられない衆生の迷いを除くことを念ずる明王。3つ目と6手を持ちます。「花も嵐も踏み越えて…」の主題歌で有名な「旅の夜風」が主題歌の映画、川口松太郎の名作「愛染かつら」ゆかりの寺。昭和13年に封切られ、上原謙、田中絹代主演で一世を風靡。当院の愛染明王と本堂前の桂の古木にヒントを得たといいます。
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51 | 瑞輪寺「安産しゃもじの祖師」「東京七面山」「銅造釈迦如来坐像」「大久保主水の墓」 |
| 境内の東南には七面山祖師堂があります。この像は日蓮が文永11年2月、罪を赦されて佐渡から鎌倉へ向かう途中、武蔵国粂川で難産中の女性にしゃもじの曼陀羅を書いてお腹をさすったところ、たちまち安産できたということで奉納されたものです。
釈迦如来像は、青銅製で割型という製法により鋳造され、肉身部は金泥で塗られております。法界定印を結び、台座上で結跏趺坐します。像高は約1メートル、台座の高さを入れると1.2メートルを超える大きな像です。また、境内には神田上水の創始者大久保忠行の墓があります。「主水」の名はその功によって家康から与えられたものであり、その際、水は濁りを嫌うもの故、「もんど」ではなく「もんと」と澄んで発音させていただきたいと願い出たと伝えられます。
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51 | 瑞輪寺「銅造釈迦如来坐像」 |
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118 | 臨江寺「蒲生君平の墓」「徳田秋声の墓」「絹本墨画着色髑髏図」 |
| 蒲生君平は寛政の三奇人として有名。国防論を説いた「不恤緯」のほか、「職官志」「山陵志」などを著しました。作家・徳田秋声は尾崎紅葉門下で泉鏡花らとともに葉門の四天王と呼ばれ、当時流行った日本自然主義文学の巨魁で「足跡」「黴」「あらくれ」他の作品を遺しました。また、当寺には江戸中期の画家で花鳥画で名高い伊藤若沖の「髑髏図」があります。
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118 | 臨江寺「絹本墨画着色髑髏図」 |
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103 | 妙泉寺「貧乏が去る像」 |
| 「貧乏神」の頭に「猿」が乗ったこの石像が「貧乏が去る像」。貧乏神をこらしめる猿は、毘沙門天(多聞天)の化身ともいわれ仏像の毘沙門天は貧乏神を踏みつけている姿で有名。「貧乏が去る像」は、貧乏神を撫でたあと、頭上の猿を撫でると「貧乏が猿(去る)」ことから、家は富み、心は元気になるという縁起の良いものです。
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103 | 妙泉寺「貧乏が去る像」 |
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48 | 真源寺「入谷鬼子母神」「入谷朝顔市」 |
| 鬼子母神はインド仏教上の女神のひとり。子供を奪っては、食してしまう悪神だったのですが、仏は彼女の最愛の末子を隠して、子を失う悲しみを実感させて、これを戒めたため改心し、以後は求子・安産・育児などの祈願を叶える善神安産の守護神として信仰されるようになりました。入谷朝顔市は、ここを中心に例年7月6〜8日に開かれ、下町の夏の風物詩として欠かせない存在です。江戸末期、十軒あまりの植木屋が朝顔を造り鑑賞させたのが始まりとされています。
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48 | 真源寺 |
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8 | 永称寺「歳寒三友図(絹本着色梅図、絹本墨画竹図、絹本墨画松図)」 |
| 三つで一組という三幅対という形式で、梅の図を酒井抱一、竹の図を大窪詩仏、松の図を谷文晁が描いたものです。伝統的な画題ながら、それぞれの画家の特徴を見出せる佳品。書画会の席上において即興的に描かれた絵画だと思われます。
文化・文政期(1804-1830)の文人の交流の証拠としても欠かせない作品です。
(当文化財は、現在非公開です。)
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1 | 安楽寺「刺繍仏涅槃図」 |
| 大判(230×149.4cm)の刺繍による涅槃図です。金箔の地に藍・緑・茶・紫・紅などの多彩な糸を用いて、細やかな刺繍が施され、中心となる釈迦は金糸を用いた華麗な姿で表し、周囲で菩薩・仏弟子・俗人・動物が悲嘆慟哭する様子も、表情豊かに表現されています。現在も華やかな雰囲気を残していますが、制作当時はより華麗なものであったと思われます。このような大型の刺繍仏涅槃図は、全国では20点の類例が確認されていますが、多くは17世紀ごろに制作されました。銘文には、知恩院門跡二世の尊光法親王(1680年没)が関東滞在の時に安楽寺に寄付したと記されています。幕末維新の頃に他の所有となりましたが、明治13年に買い戻され、震災・戦災を免れて今に伝来しています。
(当文化財は、非公開です。)
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1 | 安楽寺「刺繍仏涅槃図」 |
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33 | 西念寺「身代り地蔵と阿弥陀三尊像」 |
| 美濃の国の「小野の阿通」は才女の評判高く、千姫に仕えて大阪城に入り、のちには家康の招きで駿府城に、そして江戸開府に伴い江戸城へと、政変に関わりなく要職を歴任。その阿通が根岸の里で遊んだ際に、水田に横たわる地蔵尊を発見。其処に草庵を結びお祀りしたのです。それから14年後、高徳の誉れ高い的山上人が通りかかり、なんともいえぬ尊いお顔をした地蔵尊に感動し、21日の間、一心に祈りを籠めたところ、その結願の日に霊験があり、上人は歓喜して、この阿通立願の尊像を「身代り地蔵尊」としてあらためてお祀りし、一堂を建立し、恵心僧都一刀三礼の阿弥陀三尊を安置し、ここに東国山中養院西念寺を開山するに至ったと、寺伝に残されております。
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44 | 正宝院「飛不動尊」「恵比寿神」 http://tobifudo.jp |
| 創建後まもなく、住職がご本尊のお不動様を笈で背負い、大峯山へ修行に出かけました。江戸の寺ではお不動様のお守りを携えた人々が一心にお祈りしていました。すると、お不動様は一夜にして江戸に飛び帰り、人々の願いを叶えてくださいました。以来、空を飛ぶお不動様「飛不動尊」と呼ばれるようになりました。この由来から、航空安全・飛行安泰・旅行安全を祈願した「飛行護」を授与しています。
また、落ちないと言うことから受験合格、近年では小惑星探査機「はやぶさ」の無事帰還と言うご利益でも有名です。
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106 | 薬王寺「背面地蔵尊」 |
| 今から240年程前、前日東向きに立てたお地蔵様が朝になると西を向いていたことから、背面地蔵として信仰されるようになりました。伝承によるとこのお地蔵様は三ノ輪の奥州街道沿いの丘に正保4年(1647)に建てられましたが、この丘は戦で死んだ武士の墓だという噂があり、近くで戦があると丘が揺れ、傾いてしまい、奥州街道も地蔵の後ろを通るように道筋が変わってしまった為、東向きに立て直す事にしました。その夜、ご住職と石工の夢枕に武将が現れ「道を守るために西を向いている。勝手に向きを変えてはならぬ」とのお告げがあり、さっそく西向きに戻したそうです。
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106 | 薬王寺「背面地蔵尊」 |
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18 | 感應寺「木造大黒天立像」 |
| 銘文によれば、元禄3年(1690)法橋大仏師兵部によって制作され、「感應寺過去帳」に「大黒天謹彫奉祀」として、感應寺第7世「法華院日幸上人」代江戸吉原遊廓「金兵衛大黒楼」松本金兵衛により奉納されたと記されています。尾形光琳や円空らを輩出した元禄文化華々しい時代の作品です。
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18 | 感應寺「木造大黒天立像」 |
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64 | 泰寿院「木彫涅槃像」 |
| お釈迦様の亡くなったお姿を描いた涅槃図は多いのですが、仏像にしたものは極めて珍しく、文化財としても高い評価をいただいております。鎌倉時代に作られたものという以外、詳細は解らないのが残念ですが当院にとっては、まさに寺宝であることは間違いありません。
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64 | 泰寿院「木彫涅槃像」 |
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7 | 永昌寺「下谷長者の墓」「講道館柔道発祥の地」 |
| 当寺は永禄元年(1558)浅草の下谷長者が開創した寺。その後、寛永14年(1637)に現在地に移転。下谷長者の墓をお参りする人も多いですが、「講道館柔道発祥の地」碑を訪れる柔道家の数はさらに多いです。初めは本堂脇の座敷を練習場にしましたが、振動で仏さまが傾き、位牌が倒れるなど大騒ぎ。ついに別に12畳の道場を建て、心身鍛練の道を講ずる館「講道館」を開いたと伝えられています。門弟には、「姿三四郎」の作者富田常雄の父常二朗、三四郎のモデルとなった西郷四郎も修練を積んでいました。
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7 | 永昌寺「講道館柔道発祥の地の碑」 |
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21 | 教證寺「柳瀬美仲の墓」 |
| 柳瀬美仲は江戸時代中期の歌人。
“はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの 山ほととぎす”
この一首により「こもりくの先生」の名で親しまれました。
尚、開基・教證院釋如頓禅尼は、上野寛永寺第二代住職(公海上人)の実母です。
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101 | 妙極院「浄権律師の墓」 |
| 浄巌(1639~1702)は、江戸時代前期の僧侶で、真言宗の興隆に貢献。慶安元年(1648)に高野山に上り、剃髪出家し、諸宋学を修め、特に近代的な悉曇(梵語)学の研究に励み、「秘密儀軌」を編纂、諸処でこれを講説しました。
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7 | 妙極院「浄権律師の墓」 |
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